染井為人(著)【正体】ネタバレなし感想

小説

☆想像力を掻き立てられ、信じたものの正体を知る

 人は自分が見たいものを見て、聞きたいことを聞く。
人は自分が信じたいことを信じる。
……もし自分が信じたことが誤りだったらなら、それを否定されたら、人はそのときどうなってしまうのでしょうか。

 『正体』は逃走犯の鏑木慶一かぶらぎけいいちと彼に関わった人たちの物語です。
鏑木慶一は姿を変え偽名を使い、ある目的のために逃走を続けます。
さまざまな場面で鏑木慶一に関わるようになった人たちは、やがて”正体”に気づきます。

 人は自分が信じたいものを信じます。
自分が信じたものが誤りだったとき、人はどのような気持ちでどのような行動をするのでしょうか。

作品概要

 『正体しょうたい』は染井為人そめいためひとによる長編小説です。
2020年11月22日に単行本が発売されました。

 二歳の子を含む一家三人を刺殺したとして逮捕、死刑判決を受けた少年・鏑木慶一かぶらぎけいいち
拘留中に彼は脱獄を果たし、工事現場、高地のスキー場旅館、新興宗教の説教会、グループホームなど様々な場所で目撃されます。

感想

 本作は、鏑木慶一が主人公ですが、徹底的に慶一の気持ちを描かないのも印象的でした。
彼を知る手段が「あくまで他人から見た慶一の印象」しかないので、想像力を掻き立てられましたね。

 また、慶一の気持ちが語られないことで、彼が本当に事件を起こしたのか、彼の本当の目的も分からず、読者は完全には自分の想像に確信を持てません。
だからこそ、彼を信じたいと思う気持ちと同時に、彼への疑念もわずかに残る。
その微妙なバランスが、物語全体にスリリングな緊張感を生み出しているように思いました。

 さらに、慶一を他者の視点から描くことで、彼の行動や言葉に対する解釈が人それぞれに異なる点も面白かったです。
例えば、ある人には「優しさ」に見える行動が、別の人には「計算された策略」と映る――そんな視点の揺らぎが、慶一の「正体」をより曖昧で謎めいたものにしていました。

各章の「主人公」たち

 『正体』各章で視点となる人物が変わります。
彼らは主人公のように描かれ、それが本作の面白さに繋がります。

 鏑木慶一かぶらぎけいいちは物語全体を通じての中心的な存在ですが、各章では彼が主役というより、「他者の人生に影響を与える存在」として描かれているのが非常に興味深いかったですね。

 それぞれ登場人物は、自分の価値観や立場を持って日常を生きていますが、慶一との出会いや関わりによって、自分の人生の何かが揺さぶられ、変化していきます。
その変化は、時には彼らの信念を強めるものであり、時には自分自身を見失うようなものでもあります。
その過程が丁寧に描かれているからこそ、彼ら一人ひとりに共感し、それぞれに「主人公らしさ」を感じるのだと思います。

 例えば、慶一けいいちに接触した人々が抱く「信じたい気持ち」と「疑念」、さらにはその間で葛藤する姿は、彼らの人間らしさを鮮やかに浮かび上がらせています。
慶一は各人物の人生にとって、単なる逃亡犯以上の存在になっていて、ある意味では「触れるだけで変化をもたらす触媒」のような役割を果たしているように感じます。

 それに、慶一を通じて描かれる人々の変化は、単に彼と直接関わった人物に留まりません。
慶一が生きている社会、慶一を追う警察や報道機関、そして慶一を知ることのない一般の人々――すべてが、鏑木慶一という存在にどこか影響を受けているように思えます。
これが作品全体に「個人と社会の関係」という深いテーマを投げかけている要素でもあります。

 「彼らがどう変化し、どう思ったのか」が物語の主軸であり、鏑木慶一という謎めいた存在が、それを際立たせる役割を担っている――
読むほどに、この作品が持つ奥行きに驚かされましたね。

偏見

 逃亡犯である鏑木慶一かぶらぎけいいちは、世間から殺人犯として恐れられ、軽蔑けいべつされています。
慶一がどのような人間であっても、結局は「殺人犯だから」という目で見られ、慶一が何と発言しようがすべて「殺人を犯した異常な男の発言」という一言で片づけられます。
慶一と会ったことがない人、関わりの浅い人ほど、そのようなレッテルを貼り、彼を恐怖や嫌悪の目で見ます。

 人は知らないものや自分がよく分からないものほど、自分の中の先入観や世間の噂をもとに判断してしまいます。
たとえ事実と異なっていても、そのイメージが一度定着してしまうと、慶一のような逃走犯は何をどう説明しても耳を傾けてもらえません。
この一方的な”見え方”は、逃走中だけではなく、(描写はほとんどありませんが)逮捕から裁判までも強く影響していたように思えます。

 その一方で、慶一けいいちと直接触れ合い、深い関りを持った人ほど「彼を恐れる」のではなく、「彼を理解しようとする」のも興味深い部分でしたね。
偏見はとても強力ですが、同時に人は実際に触れ合うことでそれを乗り越える力も持っている、と希望のようなものも感じました。

『正体』に気づいた人たち

 『正体』では逃走中の鏑木慶一かぶらぎけいいちが登場人物たちと交流する中で、慶一の正体に気づいた人の心の変わりようが印象的でした。
慶一を恐れ憎み始める人、慶一が殺人犯であることを受け入れられず動揺する人、慶一と深く関わった人ほど、慶一を信じる心と逃亡犯であるという現実のギャップで苦しんでいました。

彼の無罪を信じたい人

 鏑木慶一かぶらぎけいいちの「正体」に気づいた人々の反応が、それぞれの立場や感情に応じて多様に描かれているところが、とても印象的でした。
人はただ事実を知るだけではなく、その事実にどう向き合うかで心が揺れ動きます。
特に、慶一と深く関わった人ほど感じる「彼を信じる心」と「逃走犯という現実」のギャップに苦しみ、読んでいて胸が締め付けられるような思いがしました。
慶一が無実かもしれないと思いつつも、世間が「殺人犯」として見る現実を受け入れざるを得ない苦悩――
そんな状況下で「本当の慶一」を信じようとするのは、簡単なことではありませんよね。
だから彼らは、慶一の無実を信じるのではなく、今の慶一を信じて、「過去は関係ない」と自分に言い聞かせます。
しかしそれは慶一を信じていないことに変わりがなくて、それでまた慶一自身も慶一を信じようとする人も悩むわけです。

 慶一けいいちを信じたい気持ちもそうですが、慶一を信じた自分を否定したくないんですよね。
人が誰かを「信じる」という行為には、自分自身の価値観や判断をも信じるという側面があると思います。
慶一を信じた人々が苦しむのは、慶一を信じた自分の決断や感情が間違いだったと認めたくないから――
その葛藤が物語をより一層人間的にしているように感じます。

 特に、慶一と深く関わった人たちは、「慶一がそんな人間であるはずがない」という信念にすがることで、自分の選択や慶一と過ごした時間の意味を守ろうとしているように見えました。
もしそれが裏切られたら、慶一を信じた自分自身を否定しなければならない――
それは、自分の人間性や信じる力そのものが傷つくような感覚かもしれません。

 また、信じた結果が裏切りではなくても、「もし間違っていたら」という不安が常に心のどこかにあるのも辛いですよね。
この不安と希望の間で揺れる姿には、人間らしいリアルさがありましたね。

 鏑木慶一かぶらぎけいいちの「正体」をめぐる物語は、慶一の逃亡劇というだけでなく、人間関係や信念の中で揺れる「自分自身との向き合い方」をも描いています。
信じたい気持ちと、それによる自己防衛本能――
この繊細な心理が心に深く刺さります。

彼の有罪を信じたい人

 では逆の立場の人たちはどうでしょうか?
警察が鏑木慶一かぶらぎけいいちを逮捕したのは正義のためで、慶一を有罪にした司法機関も、自分が信じる正義に従った行動です。
彼ら(警察や司法の人間)は並大抵ではない努力をして、今のポジションにいて、それが彼らの自信の源だと思います。
そしてそのプライドと正義の心は強さにもなり、逆にそれが弱さにも、そして彼らの保身にもつながっているように思えます。

 このように、鏑木慶一を殺人犯だと信じている人たちが、もし「慶一は無実」だという現実を突きつけられたら……。
慶一のことを殺人犯だと決めつけていた世間の人たちは、裏切られたと感じ、その人たちが次のターゲットにするのは警察機関や司法機関でしょう。
それが分かっているから、慶一の逮捕と判決に関わった人たちは、どうあっても慶一が犯人であってほしいと願い、慶一をなにがなんでも犯人ということにしておくでしょう。

両者に共通すること

 両者に共通して言えることは、お互いに「自分が信じたいものを信じようとしている」ということだと思います。
彼らは自分の信じたことのために、それを証明するために、行動します。
しかし、それは必ずしも正しい結果を伴うわけではありません。
そのとき人はどういった行動に出るのか――
それこそが、その人の真価を問われる時なのかもしれません。


あとがき的なものとオススメ度

 読み進めていくにつれ、鏑木慶一かぶらぎけいいちと関わった登場人物たち同じように、彼を信じたいという気持ちと、しかしそれが真実かわからない不安も同時に感じました。
とにかく先に読み進めたい気持ちが抑えられなくなりましたね!

たぶん、自分は探しているのだ。
那須隆士なすたかし鏑木慶一かぶらぎけいいちである証拠ではなく、そうでないという証拠を。

染井為人(著)正体 より引用

 これは登場人物の一人である安藤沙耶香あんどうさやかの心情描写です。※那須隆士は鏑木慶一の偽名です。
直接の描写はありませんが、彼女に限らず慶一と深く関わった人物の多くが同じような気持ちになったと思いますし、読んでいる私も同じように思いました。
そして慶一を逮捕した警察、慶一を有罪にした司法も、実はその正体に気づいていたのでは?
と思わずにはいられません。

 『正体』はフィクションで現実に起きたことではありません。
しかし現実に起きても不思議な事ではないように感じました。
慶一の「正体」をどう受け止めるのか、それは読者の自由です。
私は慶一の「正体」を知って、やり場のない気持ちと無力感を感じました。
しかしそれと同時に、自分のマイナスも考えようによってはプラスにできること、一人でできないことでも、仲間となら、世論を味方につければ、できるかもしれないといった希望のようなものも感じましたね。

こうよう
こうよう

慶一の人柄に私もほだされました。

パン
パン

詐欺にあう人の気持ちもわかったでしょ?

正体」のオススメ度は★4.0です(満点が★5.0です)
 章ごとに主人公が変わるので、章の序盤が少し退屈な感じになりますが、視点の変化による慶一の印象の変化が本作の魅力でもあります。
徹底して他者から見た慶一のみを描き、慶一自身の気持ちを隠すことで、スリリングさを感じ、想像力を掻き立てられ、長編作品ですが、ダレることなく読み進められました。

こんな人にオススメ

・考えさせられる小説を読みたい

・スリリングな小説が読みたい

・メッセージ性が高い小説が読みたい

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